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天才・鳥山明先生の魅力とエピソードに迫る!「鳥山明 エピソード一覧」をお届けします。漫画家としての苦悩、成功の裏側まで、数々の興味深いエピソードを網羅。
彼がどのような経緯で「ドラゴンボール」創作に至ったのか、ジャンプ黄金時代の裏話も満載です。さらに、読者との交流や影響を受けた漫画家についても明かします。
漫画家になったキッカケが凄い
鳥山先生が漫画家になった経緯は独特で面白い。
高卒でデザイン会社に就職するも主な仕事内容が文字デザインになった事に嫌気がさしたり、もともと遅刻癖があったりして2年半で脱サラ。
それから1年ほど経ち、喫茶店で偶然手に取った少年マガジンで"新人作品募集・賞金50万円"という記事を見かます。遊ぶ金に困っていた鳥山先生は、その賞金欲しさに漫画を描いたというのがデビューのきっかけだったそうです。
タバコ代が欲しかったというのが新人賞に応募した一番の動機だそう。
しかも当時23歳にして初めて漫画を描いたというのが凄い、そこからとんでもないスピードで人気作を作りあげてしまうのは天才的です。
アシスタント経験なしでデビュー
応募作品の完成が少年マガジンの新人賞の締切期間に間に合わなかったため、少年ジャンプの新人賞に投稿したところ鳥山先生の作品に目を止めたのが当時ジャンプの編集者だった鳥嶋和彦氏でした。
賞金は取り逃したものの、鳥山先生の作品に可能性を感じた鳥嶋氏は『もっと作品を送ってくれ』とアドバイス。そこから鳥山先生はジャンプへの作品投稿を続け鳥嶋氏から1年間で約500ページものボツを受けたとか。
そんな鳥嶋氏とのやりとりを経てワンダー・アイランドで漫画家デビューされたそう。鳥山先生の独特な絵は他の連載漫画家のアシスタント経験がなかったのも関係してるのかもしれません。
ドラゴンボール誕生秘話が凄い
ドラゴンボール開始前、初連載作品にして大人気になっていたDr.スランプという漫画の連載をしていた鳥山先生ですが、Dr.スランプにネタ切れ感が出てきてしまったそう。
そこでDr.スランプの連載終了を持ちかけたところ「3ヶ月後に新連載を始めること」を条件に出された鳥山先生は、次回作への試作品として2つの読み切りを描き1984年8月にDr.スランプの連載を終了。
それから約3ヶ月後の1984年11月にドラゴンボールの連載が開始される事になります。
ドラゴンボール誕生のきっかけはDr.スランプの連載終了だった、しかも急いで作られた漫画が世界的なヒット作になってしまうのも凄いエピソードです。
人気低迷から大躍進したドラゴンボール
ドラゴンボールは大人気だったDr.スランプの次回作ということで当初は大きい反響がありました。しかし、読者アンケートの順位は時間が経つごとにトーンダウンしてしまいます。
その原因を分析した結果、西遊記のパロディにバトル・アクションを交えた冒険物語だった初期のドラゴンボールから、主人公・孫悟空が強さを追い求めるキャラへと変化させることを決断。
天下一武道会を開催しライバルや猛者達と強さを競うバトル漫画へとシフトチェンジ。そこから本格的にドラゴンボールの人気に火がついたという経緯があったそう。
初期の作風が鳥山先生の真骨頂という声も少なくないですが、バトル漫画への明確なシフトチェンジがなければ確かにここまでの世界的ヒットは無かった気がします。
ドラゴンボールの連載終了が不可能になる
大ヒットしたドラゴンボールは漫画以外にアニメ・ゲーム・グッズ等にも展開。しかもその人気は世界的なものとなり、ドラゴンボールという作品はワールドワイドに拡大していきます。
ドラゴンボールに関連する商品・企業が増えていく分、連載が経済に与える影響も拡大。
ドラゴンボールの商品に関連する企業の売り上げや株価等のビジネスに与える影響も大きくなってしまったので、鳥山先生だけでは連載終了を決定できず度重なる関係各社の会議を経て終了まで辿り着いたそう。
鳥山先生の描いた長期連載の2作品全てが国民的漫画に成長、しかもDr.スランプの連載終了の条件として始めたドラゴンボールがそれ以上に連載を止めにくい状況になるというのはもはや伝説。
この辺りのエピソードについては当時鳥山先生の担当をしていた少年ジャンプ伝説の編集者・鳥嶋和彦さんのインタビュー動画が面白いです。
めんどくさがり(?)伝説が面白い
ドラゴンボールは市街地でバトルになりそうになると街から岩場のフィールドに移動、または敵が必殺技で街ごと吹き飛ばして荒野にしてしまうというシーンがありました。
特にドラゴンボールの人造人間編くらいからそういったシーンが多くあったんですが、これには市街地の細かい背景を描くのが大変という理由もあったそう。
アシスタント1人説
ドラゴンボールの連載終了まで鳥山先生のアシスタントは1人だけ。Dr.スランプの途中からドラゴンボールの連載終了までアシスタントを務めた松山考司さんが有名。
真相は分かりませんが、アシスタントさんは週一回程度来てもらう程度で残りは鳥山先生1人で描いていたというエピソードがあります。
これだけ大きくなてしまった作品でも極少数で作り上げていたと考えると、めんどくさがりというより頑張り過ぎているので抜くとこは効率的にしていただけの様にも思えます。
漫画の神様も認める画力が凄い
日本の漫画黎明期に数々の名作を生み出した漫画の神様・手塚治虫先生。
簡単には他人を認めないクセの強いエピソードが豊富なんですが、そんな人が「鳥山明にはかなわない」「ちょっと上手すぎるよね」「僕の後継者」と、鳥山先生を称賛する発言をしていたんだとか。
これらの発言はリップサービスという可能性も大きいですが、自身の名を冠したジャンプの新人賞・手塚賞の審査員に鳥山先生を推薦している事から鳥山先生の実力を認めていたのは間違いなさそう。
あの海賊漫画の作者も称賛
ワンピースの作者・尾田栄一郎先生も鳥山先生との対談インタビューで「そりゃもう神様ですね、次元が違います。とにかく絵が上手過ぎますね」と鳥山先生の画力を絶賛しています。
超一流の連載作家たちがこぞって絶賛しているのが凄すぎます。
まとめ:鳥山明の都市伝説も凄い
鳥山先生がどこかへ引っ越すのを防ぐため、自治体が鳥山先生の家近くに国道を作った『鳥山ロード』伝説という有名な逸話があります。
国道を作った理由は鳥山先生が住んでいたらその地域の税収が潤うからという事。
引っ越さなくてもいい様に交通の利便性を上げるためとか、原稿を空港まで運びやすくするためという説があります。ただ、どうやらこのエピソードはただの噂で都市伝説レベルの話だそう。
そのくらいの噂話が出てくる事も凄いんですが、このレベルの噂でも信じさせてしまう事が凄すぎます。